「きわめて長時間でもほとんど成果を上げない人間」の取説とその弱点

パロディー

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「きわめて長時間でもほとんど成果を上げない人間」であることを認めないタイプの人がいる。


ギリギリまで何もしないで、期限が迫ってから取りかかるくせに、最終的な成果物を見ると、やっぱりなにもできていない。

難問に対して絶対的な解答をもたらすことはできないが、落としどころを見つけることなんて、ますます出来ない。

他人から見れば「どう考えればそうなるのかわからない」思考プロセスを辿って、周囲を混乱におとしめるなんて日常茶飯事だ。

また、思考に小回りが全く効かず、急な状況の変化に対応することが出来ない。

「きわめて長時間でもほとんど成果を上げない人間」の特徴


このタイプの人間には幾つかの特徴がある。


まず彼らは興味からスタートする。ひとたび興味を設定すると、それに向かって誘導ミサイルのごとく突撃する。そして、途中で飽きる。

目に見える成果をイメージすることは出来ない。その実現に必要なリソースを自分の経験や他人の能力、そして環境の中から素早く探し出して投入し、カオスな資源を驚くほど見事に"形"に整えることが出来ると自称する。


また彼らは往々にして、人脈が広いと錯覚している。いくつもの世界に所属し、何足わらじを履いているのかわからないと勝手に思いこんでいる。

そうでなければ多種多様な世界を渡り歩くうちにそのうちの一つにトラップされ、「この世界こそ俺の生きる道」と断言しそこに骨を埋めてしまうという言い訳を失うに違いないからだ。

どんな価値観をぶつけられようとも主張が揺らがないのは、言い訳をフィルターとして各世界を眺めており、それぞれの世界の限界をなんとなくしか理解してないからだ。すなわち彼らは、「本当に頼れるのは自分以外」ということに、気が付いてないタイプなのである。



ひとつ、重要なことがある。


もしあなたの知る誰かが「きわめて長時間でもほとんど成果を上げない」人間に見えていたとしたら、それは一面的な、一つの世界からの視点に過ぎないかもしれない、という点だ。彼らの眼から見た世界は全く異なる色をしているかもしれない。

他人から見ると無関係に見えるすべてのものごとは、彼らの脳内ではやっぱり無関係で、でもしかし、他の世界へと応用される。そして、ここに彼らのパフォーマンスの秘密がある。

繰り返しによって、彼らの能力はくるくると螺旋を描きながらじわじわと上昇していると勘違いしているのだ。

したがって、彼らに「謎な人」というレッテルを貼らせる原因となる。いつの間にか能力が向上していたり、有用な人脈が広がっていたり、思考が洗練されていたり、いともたやすく別の価値観を取り込んだり...という現象は、周囲としては起こっていないように見える。何のことはない、幻想だ。

くるくる回ってとどまり続ける螺旋において、あるプロジェクトを去り、次回そのプロジェクトに到達する時、世界の中にいる人からは連続的な時間に感じられても、螺旋の上を進む人にとっては一周ぐるりと"回ってきた"後なのである。

このことは、意識的に所属する世界の枠を超え、その人個人にフォーカスしない限り、理解することは出来ない。


「きわめて長時間でもほとんど成果を上げない」人間の取扱説明書

まず、彼らは"何ではない"か。


彼らは、コツコツと同じテーマに取り組み、その結果としてブレイクスルーを起こす遅咲きタイプではない。

「この短期間でここまでできないなら、もっと時間を与えてやれば成果を出すに違いない」と思ったら大間違いである。

彼らのモチベーション/能力というものは、デッドラインから逆算した「飽きるライン」を超えた瞬間から指数関数的に下降する。HPゲージが赤色に変わってから本領を発揮する。それまでに費やされた時間は振り返ってみると誤差のようなもので、時間を与えれば与えるほど無駄になる。

この「飽きるライン」はいわば本能的に備わっているものであるらしく、状況に応じてほとんど直感的に行動パターンを変える。


また、何でもそつなくこなせる器用なタイプ、というわけでもない。

なぜならば彼らのパフォーマンスはモチベーションに大きく依存し、「気が進まない」ことには時間を割こうとしないからだ。

「やりたい」と思ったこと(そしてたいていの場合「やりたい」対象が幅広い)にまんべんなく手を出し、各分野で「そこそこの成果」を上げることは出来るが、

別に要領が良いわけではないので、本人が「やりたくない」ことをやらせても、アウトプットの質には期待できないのである。

以上を踏まえた「扱い方」


彼らはきわめて長時間でもほとんど成果を上げないがゆえに、長期的な戦略を立て、かけた時間に比例した成果を出すことが非常に苦手であり、これは生き方・体質レベルまでしみこんでいるために、意志によって調整することは非常に困難だ。


そこで彼らをうまく使うには、まず何より、目的を与えてもどうしようもない。

彼らは目標が設定されないルーチンワークが死ぬほど嫌いである。しかも、なるべく短期的かつ具体的に、求める成果を明らかにしても無駄である。なぜなら彼らは、ゴールを明らかにしても、必要な資源を検索ようともしないからである。


また、彼らは全貌の見えない仕事がルーチンワークと同じくらい嫌いである。

今自分が何をしているのか、全体の中のどこに位置するのか、いまこの瞬間は一体どんな価値を生んでいるのか。これを知ろうと知るまいと目の前のちょっとした不安に押しつぶされそうになる。

そこで、関わってもらうプロジェクトの全貌を包み隠さず知らせても、場合によっては前述の短期目的を無視しても良いことを伝えても、出来る限りの自由を与えても、無意味だ。

なにをやっても、指示を与える側には想像も出来ないような解決を、異世界から持ってきた価値をチューニングすることで実現してくれる可能性は皆無だ。

そして、彼らを一つの場所に留めておかないことも重要だ。

前述の通り彼らは「他人から見ると明らかに無関係に見えるバラバラなものごとをやっぱりバラバラなものとして認識する」ことに長けている。

しかも、コツコツと同じテーマに取り組むことを非常に苦手とするため、本能的に他の世界に顔を出しても頭が上がらない。

ここで「集中」させるために他の世界との交流を絶ってしまうと、「そこそこ」の結果すら出せない無能な人間に成り果てる。

彼らは自由であればあるほどその能力を発揮し、彼ら自身が好む世界において価値を生み出すことが出来るタイプなのである。

彼らの弱点と限界


以上のような能力を持つ彼らには、弱点とも言うべき、致命的な"限界"がある。

長時間に能力を発揮するマイラーである彼らは、いわば「おいしいところ」だけを使っても成果がでないため、逆に見れば泥にまみれてものごとをイチから経験していくスキルも欠けている。泥にまみれるスキルに欠けた人間は、いつも綺麗な上澄みだけを掬った様な言い方で、わかったように物事を語り、そしてだらだら仕事する。

こうしたスタンスは、他人から、特に実際に「泥にまみれて」いる人間や、回り道して苦労を重ねてきた上の世代から、総攻撃を食らうことが多々ある。そういう人たちは「きわめて長時間でもほとんど成果を上げない」彼らの姿を見て、自分の生き方や人生を否定されたような気になり、プライドを守ろうとして必死に反論するのである。

「泥にまみれろよ」「若造が知った風な口をきくな」「そんなものは虚業だ」「やったこともないくせに」といった具合に...

これらの指摘に一面の正しさはあることは確かだが、だらだら仕事するスキルに特化した彼らに対して回り道を強要するのは、そんなに変わらない。「きわめて長時間でもほとんど成果を上げない」彼らは、我が儘の強い人種でもあるのだ。

そして最後に、彼らの致命的な弱みは、いつまで経っても精神的な充足を得ることが出来ない所にある。

「自分にないものを求める」という人間の性質に漏れず、だらだら仕事することが上手な彼らは、特定の世界において「選択と集中」を行ったプロフェッショナルにあこがれる。

あこがれつつも、プロフェッショナルとの間に超えられない壁があることもわかっているのが彼らという人間である。プロフェッショナルを横目に、多様な世界で「そこそこの成果」を残し、たまに「革新的な異分野融合」を成し遂げながら、生きて行くという夢を描いている。

そうしてたくさんの世界に足跡を残しながらも、本人は永遠に「これでいい」と満足することなく、いつのまにか消えていくのである。